兵隊の死

という話をぱくってみた。

『あおぞら』

 何もかもを失って歩くというのは、本当に身軽だった。魅上は冷たいコンクリートを歩く。右足、左足。呼吸は非常に落ち着いている。右足、左足。右足の方が踏み出す距離が長いのは、左回りに円を描いて歩いているからだ。吸って、歩いて、吐いて、歩く。心拍数は一定している。空気はまだ冷たいが調子はとてもいい。
 夜神月。彼は完璧そのものに見えた。端正な容姿、落ち着いた話し方。高い知性と揺らぐことのない理性。隙などはどこにも見えず、むしろ彼に隙があるとしたらそれは彼が故意に演出したものだっただろう。そんな全ての要因が、彼を人間以外の何かに見せていた。実際、彼は完璧だった。彼は神だった。
「魅上」
 どうやら気付かないうちに立ち止まっていたらしい。看守の警告に頷いて歩き出す。右足、左足。歩調を保って歩く。急いてはいけない。焦っては何もかも失う。神のことばかり考えても仕方がないのだ。魅上は既に神を失った。彼が神と呼んだ青年は死んでしまった。後に残されたのは黒いノートと死神、それに自分たち惨めな人間だった。すぐれたものたちはみな死んだ。無知の都には彼はうつくしすぎた。何年経っても誰を忘れても、彼のあのうつくしさだけは鮮明に思い出せる。魅上は歩き続けている。
 彼が犯した覚えもない罪状によって逮捕されたのは、月が死んで数時間も経たないうちだった。神が全知全能なのではなく、全知全能だから神が成り立つ。だからそれを裏切られた時、魅上の神は人間に失墜した。ほんのいっときのことだった。あのごく僅かの時間で、神が死んで理想郷が失われた。全て嘘のようだった。あまりの馬鹿馬鹿しさに、自殺を防ぐための拘束をされるまで自殺という考えすら思い浮かばなかったほどだ。
「魅上」
 再び名を呼ばれた。はっとするが、今度は魅上は立ち止まってはいなかった。歩調を崩さないように注意を払って歩く。
「おい」
 看守を振り向くと、場違いな黒いスーツの男が立っていた。これまで何年もこの男を目にしていなかった。黙って看守が首を振って見せた扉の方に向かうと、かつて自分の無罪を叫んでくれた友人は痛ましそうな顔をした。
 幾つかの手続きと署名を繰り返して、魅上は気付けば灰色の塀を背にしていた。
 自分がこの外に居ると云うことは、魅上は寒々と広がるコンクリートの大地を見つめた。つまり自分は忘れ去られたのだろう。それだけの月日が経ったと云うことか。
 呆然とする魅上の肩を、友人がいたわるように叩いた。
「何もかもやり直せばいい。今はまだ仮釈放でも、君が出てこられてよかったよ」
 自分が何年をあの中で過ごしたのかを魅上は知ろうともしなかったが、苦く微笑んだ友人の顔には隠しようのない年月が確かに刻まれていた。全ては過去になってしまっていた。
 長いこと不在にしていた自宅は、住むものをなくして埃に沈んでいた。友人の勧めに従って、魅上は彼の部屋をたずねた。ここ数年で社会は酷く物騒になったと聞いた。護身用に銃を用意してあるのだと諦めを滲ませて友人は笑い、それで魅上は近年刑務所に犯罪者が増えていたことをぼんやりと考えた。過去の自分には犯罪者を削除する権利が与えられていた、そう話したら友人は彼がたちの悪い冗談を云っているか気が触れたと思うだろう。
 だから魅上は自由にされた。全てがお伽話になってしまったから。
 友人の話に頷いて見せながら、魅上は月のことを、犯罪者の居ない世界のことを、彼の神を思っていた。自分の中からだけは失われないと信じていた、その何もかもが今改めて失われようとしていた。それなのに彼にはそれを見守るしか出来ない。

 本当に全てをなくして、魅上は身軽だった。冬はそろそろ春の気配をさせ、今にも暖かな風が吹きそうに見える。右足、左足。身軽になった魅上は歩いている。右足、左足。調子がいい。この分ならいつまででも歩いていられそうだ。呼吸も完璧に整っている。魅上は進んでゆく。
 そのうち彼は広場か何かに出たことに気付いて立ち止まった。一面に広がる芝生はそろそろ本来の色を取り戻しつつある。芝に混ざって、雑草も蕾をつけていた。春が近い。魅上は歩いている。彼は自由だ。
 ふと、魅上は自分が誰なのか考えた。信念も目標も過去も失って、彼は既に違うものになってしまっているのではないだろうか。彼が亡霊でないと云いきれるのか。
 それから魅上は空を見上げた。よく晴れた空だった。彼は云い知れない幸福を感じて、その場で仰向けに寝転んでみた。彼はからっぽで身軽だった。青空はそんな彼を染め上げるように青い。
 不意に思い立って、魅上は懐から友人の拳銃を取り出した。しっかりと狙いを定めて空に向かって撃つ。発砲音と共に銃弾はまっすぐどこまでも飛んだ。それですっかり穏やかな気分になって目を閉じた、そこに銃弾が落下して魅上の人生は終わった。

……以上!長かった……