誕生日祝い

ちょっと遅くなったけど、お祝いの気持ちに小噺でも。

『優しい日』

 美味しいと評判のドーナツ店が新宿にオープンしたという話を、いち早く聞きつけてきたのは意外にも妹の粧裕ではなく月の方だった。
「えーっお兄ちゃん知ってたの!」
「ああ、同じ授業を取っている女の子たちが、オープン前日から騒いでいたからね」
 珍しいこともあるものだと目を丸くした妹に、月は曖昧に笑って頷いた。授業を休んでまでして買いに行くクラスメイトさえいたほどで、粧裕もそれで知ったのだろう。
「なーんだ、知ってたら買ってきてくれればよかったのにー」
 私も食べてみたーい、と呑気にねだる妹に溜息を吐いて、月はポテチの袋に手を伸ばす。何枚かつまんでテーブルに袋を戻せば、同じブランドの二種類のフレーバーが仲良く並んだ。
「どれだけの行列になってるか知らないのか?」
「もう!いいもん自分で行くもん!」
「ああもう……解ったよ」
 頬を膨らませた妹にはどうしても勝てず、妙に後ろめたいような気分になりながら月は翌日ドーナツを買いに行くことを了承した。背中で死神が遠慮もなにもなく笑った。

 そして月は捜査本部前で立ち尽くしている。左手には後悔、右手には例のドーナツ店のロゴの入った袋を抱えて。
 今すぐ引き返すべきだろうか。月は強く煩悶した。竜崎の分まで買うなんて僕はどうかしているとしか思えない。昨日の時点で竜崎の分について考えていた自分を何故誰も止めてくれなかったのだろう。
 月の気も知らずに死神は扉の向こうに頭を突っ込んで中の様子を見ている。
「月くんですね、どうぞ」
 逡巡している月の来訪に気付いたらしく、扉の向こうから竜崎の声がかけられる。月は考えることを諦め、云われるまま室内に足を踏み込んだ。
「よく来てくれまし……た」
 言葉が終わるより早く竜崎の視線は月の持つ袋に注がれる。それで月は殊更何でもないような顔で袋をテーブルに置いてみせた。
「最近オープンしたろ、妹が食べたいって云うからさ、」
「懐かしいですそれ」
「……そうなのか?」
 だからついでに買ってきたんだ。月は言葉の残りを発するタイミングを逃して目の前の男を眺める。
「はい。アメリカあたりでよく食べました。ああこれは私がアメリカ合衆国の育ちだと云う意味では、」
「そうだな日本ではこれが最初の店舗だからね!」
 竜崎の言葉に被せるように口調を強めながらも、月は自分の大人げなさに嘆息したくなった。どうして自分はこうも負けず嫌いなのか。
 それ以上は何も云わず、月は黙ってドーナツの箱を開けて竜崎の方へ軽く押しやる。竜崎の手が箱に伸び、それから月も溶かした砂糖でコーティングされた一つを手に取った。甘くざりざりとした食感。唇の端についた砂糖をちいさく舐めれば一瞬の抵抗の後に脆く融解する。
 沈黙は不思議と苦くも塩辛くもなかった。
「……私、何か欲しいものはないか聞きましたよね」
「ああ」
「ここ二週間というもの毎日聞きました。その度に月くんは何も欲しくないと云いました……それなのに月くんは私にドーナツをくれます」
「……」
 月はやや俯いてテーブルの上のボール箱を見つめた。ドーナツはまだ幾つものこされて綺麗に整列している。
「月くんは優しいですね」
 顔を上げれば、竜崎の顔もまた鼻先が触れ合いそうな距離にある。月は知らず小さく息をついた。
 するりと竜崎の手が動いて月の頭を撫でる。相変わらず妙な手つきで。
「お誕生日おめでとうございます」
 頭が僅かに引き寄せられ、額が竜崎のものに触れた。月は目を閉じされるがままになりながら、今度こそ安堵して溜息を吐いた。