月がおちていたその2

直前のエントリより続いています。

『ドアの前に月が落ちていた』その2

 都心の最上級ホテルの最上階の廊下に、どうやらほどほどに育ちのよさそうな少年が転がっている。遭遇したことのない状況に私は一瞬首をかしげた。
「これ……何なんでしょうか」
 いつもの癖で親指を唇に押し当てる。裸足の先で少年の足のあたりを数回つついてはみたが、反応がない。位置が悪いのかと今度は肩をやはり爪先で揺すぶってみても相変わらず目を閉じたままで、それで私の好奇心は多少醒めた。どうせ迷ったのだろう。
「こんなものより糖分補給が優先です」
 だが少年に背を向け、エレベーターホールに向けて歩きだしたところで自分が履物を履いていないことに思い至った。室内も廊下も清掃がゆきとどいていたため、裸足で居ても全く問題はなかったのだが、階下に向かうとなれば話は別だ。そこらの雑菌がもとで死ぬLと云うのも面白いが、他人事ならともかくあまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。仕方なく引き返してドアを再び開いたところで、背後の少年が苦しげに呻いた。
「……うう」
 厄介ごとの気配がする。私は爪を噛みながら振り返るべきかどうかの判断に迷ってから、無益な関わりは避けて部屋の扉を閉じることにした。ああしかし糖分が。
「みず……」
 私は渋々振り返って少年の様子を改めて確認した。顔色は紙のように白い。体調が悪いのか。取り敢えず水だけ与えたらホテルの人間を呼べばいいだろう。少年の体に腕を回して支え上げ、手近なソファに放り出す。常備されているミネラルウォーターのボトルを開けて口許にあてがうと存外素直に水を飲んだ。この分なら死なないだろう。私は少年の姿が視界に入るよう注意しながら電話でフロントに連絡をとった。
「んん……」
 ようやく目を開けた少年がふらふらと視線を室内に彷徨わせた。ここがどこなのかさえ把握していないようだ。私はホテル側の責任者が来るまで少年の向かいに座って待つことにした。そうしたらコンビニエンスストアで扱っているチープな菓子類を大量に買い込んでやる。
「あれ、ゆめかな……」
 少年が私を見上げて微笑む。掠れた声でも私の耳には届く程度の声量だった。夢?寝惚けているのだろうか。
「ぼくのまえにえるがいる……」
 う、嘘だ。例えおはぎの中に裁縫針が仕込まれていても私はこれほど動揺しなかったはずだ。私は大急ぎでフロントに電話を掛けなおし、不審者だと思われていた人物は友人が招待した人間であったと訂正した。

まだつづく。