日陰の花

太宰の『めくら草紙』パロ。骨組みをまるっといただいてきたのでほとんどパクりくさいですが。

『日陰の花』

 探偵といういかがわしい職業を廃して私はごく普通の家に暮らしている。そろそろ三十路に入る私には数人の後継者があり、かれらは未だ成人すらしていないにも関わらず、その能力は私のものに肉薄していた。
 私の役目はすっかり終わったのだ。私は長年世話係を努めてくれた老人にそう伝えて自分の名前を後継者に譲った。これで私には名前すらなくなった。
 正規のルートを使って用意させた戸籍と身分と、つましく暮らしてゆくのに必要なだけの財産を持って、私は東洋の島国に暮らすことに決めた。様々な人種の混じった私の外見は、おそらくアジアの近代国家でもっとも馴染んだ。そこで私は適当な女と結婚し、作家業を営むのだと云って日がな一日自宅の中で猫のように丸まっていた。
 未だに私の後継者たち、私がMとNという呼称しか知らない子供たちのためにアドバイスをすることがある。彼らは確かにその才能の面では私を凌駕するのかもしれないが、しかし経験というものはある程度の時間をかけなければ積むことができない。しかしそれを除けば私は全くもって身軽な若隠居なのだった。
 私が結婚してから正式に居を構えたのは一年と少し前のことである。信頼する人間の世話で用意された、すこし古ぼけた日本家屋の居心地は思いのほかよかった。自分のものとして存在する和風の家というものは私には物珍しく感じられ、越したばかりの頃は用もなく近所を歩きまわったりもしたものだ。
 私が月という名前の少年と知り合ったのは、ちょうど二か月ほど前のことになる。隣の庭には紫陽花が植えられていて、私は日課のようになった散歩の途中でそれに眼を奪われたのだった。梅雨時の風物詩であるだけに、その当たり前の光景に心を動かされるとは私自身思ってもみなかった。だがけぶる霧雨の中に滲む紫陽花はじつに美しかった。
 するりと、紫陽花に導かれるまま隣家の開け放たれた門をくぐり抜け、私は家人を呼ぶ声をあげた。
「すみません」
「はい、何でしょう」
 呼び声にこたえたのは小さな少年だった。いや、小さいと見えたのは私が東洋人を未だに見慣れないためであって、彼らの基準に照らせばこの少年はおおよそ十七か八程度の年齢であると見てとれた。
「この家のかたですか」
「はい」
「そこの紫陽花があんまり綺麗なものだから、少しわけていただけないかと思ったのですが」
「父にきいてきます。少しここで待っていてください」
 少年はするりと身を翻して屋内へ戻ってゆき、数分と経たないうちに戻ってきた。
「どの花をお渡ししましょうか」
 少年の手には渋い色をした鋏があった。普通の鋏とは形状が違うそれは、植物を切るためにつくられたものなのだろう。
「そうですね、これがいいです」
「わかりました」
 紫陽花の真下に立ち、少年は頸をかしげて私の指さした花を見た。しろい指先が茎に絡みついたと見る間に、ぱちんという音と共に紫陽花が少年の掌中におさまっている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 私は頷いてみせてから少年に背中を向けた。自宅に戻り、妻に花瓶に挿しておくように云い付けておこう。私の文机の上で、紫陽花は霧雨の匂いをのこして暗くけぶるに違いない。
「あの」
 ざり、と湿った砂利を踏んで立ち去ろうとする私に、少年がふと声をかけた。
「なんでしょう」
「お隣に住んでいる方ですか」
「はい、そうです」
「庭に花菖蒲が咲いていますよね」
「ああ、あれはあやめですよ、私の庭には水がないので」
 あやめ。少年は小さく復唱した。
「こんど見にいってもいいですか」
 私は咄嗟に断りかけ、しかし思い直して頷いた。私はもう他人との接触を恐れる必要はない。いつ死んでしまっても、もう構わないのだから。
「ええ、いつでもどうぞ。私は大抵は自宅にいますから」
 それをきっかけに私と月は知り合った。

続く