日陰の花つづき

直前のエントリの続き。これで完結です。
誤字脱字をチェックしてから、サイトの「文章」のページに載せようと思います。

 月が私の庭であやめを眺めて帰ったあくる日、私の家の郵便受けには彼からの手紙が入っていた。四つに畳まれたルーズリーフには、私が時折雑誌に投稿している素人めいた作品への感想が綴られていた。そもそも私は小説家などではなく、また、それを志す気持ちすらない。働きもせずに書斎で日々を送るための便宜的な肩書き、それの維持のために書き殴ったものだ。だが月は感想の終わりにこう書いていた。
 僕にはあなたの才能がわかります。僕はあなたが特別な人であることを知っています。
 馬鹿馬鹿しい言葉だった。私には才能はない。私の持つ才能は既に次の代のものに受け渡され、私が特別な人間であったことも最早むかし語りになっている。この少年には、私の本質など見抜けるはずがなかった。かれは私がこういった言葉を寄せられてよろこぶと思っているのだろうか。お世辞のひとつやふたつで私に気に入られるとでも。
 もしも私がほんとうに小説家を目指していたとしたなら、それでも多少なりとも彼の手紙に励まされたのかも知れない。だがそれもうつろだった。
 しかし私の妻はその手紙を読んで、彼をいたく気に入ったようだった。また家に呼べばいい。鏡をじっとのぞき込みながら妻はそう微笑んだ。月はそれから、毎日のように私をたずねた。
 月と話すこと自体は私にとっても退屈を紛らわすにはちょうどよかった。季節が梅雨を抜けて初夏にさしかかる頃には、当初の反感に似た感情もあらかた薄れ、私と月は親しいとすら呼べるようになっていた。
「月くんもそろそろ大学に入るころですか」
「うん、来年の年明け頃には僕も受験しているはずだよ。……将来は、警察官になる」
「そうですか。もう決めているのですか」
「僕の父さんも警視庁ではたらいているからね」
 それは月が希望した将来なのだろうか。父親が公僕であるからその子もそれに倣わなければならない必要などないはずだ。私は月の流されるままの選択を少し不服に思ったが、それ以上を訊こうとはしなかった。
「次の休みは避暑地で住み込みながら働くつもりなんだ」
「それはよさそうですね」
「ああ、暑いのは苦手だし、楽しそうだろ」
「私もあそびに行きましょうか」
「きっとだよ」
 気まぐれに提案すると、月は私が想像したより嬉しそうな顔で頷いた。
「……そこには、ひとりで来るといい」
「なぜですか」
 月の表情は能面のようで、私には何も読み取ることができない。愛想笑いの得意な少年は、実際には滅多に笑わない。
「あんまり大勢で来られると、どれだけ働いても僕は破産だよ」
 貧乏作家におごってやるつもりだったらしい。私はついと月の顔をのぞき込んだ。はにかんだ笑い方は本当のものか嘘のものか。
 月からは不幸の匂いがする。かれの自宅では今、梔子の花が咲いている。白く美しく、つよい芳香を放つ癖にそのかおりは早逝する芸術家のようにあっけなく立ち消える。それがあまりにも月に馴染んでいて、以来私は梔子があまり好きではなくなった。
「もっと自分のしたいことをした方がいいでしょう」
「大丈夫、いつもそうしているよ」
 微笑んで、月は縁側から下りると庭を歩きはじめた。塀に沿って植えられた木々の間を縫うように歩いては、私を振り返る。
 妻が月を見かけなくなったと云ったのはいつのことだったか。私は毎日のように月の顔を見ているのに、妻だけは何故か彼とはなかなか出会う機会がなく、それで私は小さく笑って云ったのだ、月が来る時間はちょうどお前が出掛ける時間と重なっていますから。
「あ、ほたるぶくろがまだ咲き残っている」
「ああそんなものもありましたか。妻が植えたのでしょうか」
「……日陰の花か」
 俯いた月の横顔は、夕暮れの闇に沈んでいる。
 かれは不幸になるだろう。その直感は梔子の香りにのって私の頭蓋のなかで漂った。私の直感は、そして、ただの一度も外れたことがない。
 私はあの日から月に会っていない。私は月を家に帰してしまってから、何日か居留守を使った。数日間、月の心配そうな声がとおく聞こえていたが、彼は家人に私の様子をたずねたりはしなかった。妻がかれを見かけたが、すぐに立ちさってしまったと云う。それから更に数日が経って、私が時折投稿している文芸誌に私の作品が掲載された。私は月の話を書いた。貧乏作家に淡い想いを寄せる少年の話。
 私の書いた小説を読んで、月はもう私をたずねてはこないだろう。私はかつて流したことのある涙を思い返して、飾る花のなくなった文机の花瓶をじっと眺めた。